2015年2月21日 (土)

僕が言っているのは、 ネガティヴ・ケイパビリティ(受容する負の能力)というものだ。

僕が言っているのは、
ネガティヴ・ケイパビリティ(受容する負の能力)というものだ。
先の読めない状況や、理解を超えた神秘や、
疑念のなかに人があるとき
事実だの、理屈だのを求めて苛立つことなく、
その中にたたずんでいられる、
その能力のことだ。

――ジョン・キーツ 1817年12月22日 ジョージ&トマス・キーツへの手紙より
(下記パブリック・ドメイン テキストより拙訳)

—I mean Negative Capability, that is, when a man is capable of being in uncertainties, mysteries, doubts, without any irritable reaching after fact and reason.

John Keats  (to George and Thomas Keats,
December 22, 1817)
from "Letters of John Keats to His Family and Friends"

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2011年1月25日 (火)

自分がもっとも自分となるような

…天才のもつ健全な自惚がロレンスに欠けていたことが、
かれの生涯を悲劇的な浪費におわらせた根本原因の一つである。

(中略)ケニントンは、まったく他人の、
千里眼のきく老教師に『智慧の七本の柱』を
見せたときのことをこう述べている。
それを読んでの教師の感想は――

「この本を読んで、わたしは胸が痛んだ。
これを書いた人は、わたしの知るかぎりでは
もっともずばぬけた大人物だが、
この人はおそろしくまちがっている。
自分が自分でないのだ…(中略)

わたしは心配でならない。
この人は行動のなかで生きてはいない。(中略)」

この感想は、ロレンスの根底を衝いているのみか、
「アウトサイダー」一般の性格を的確に表現している。

「この人は行動のなかで生きていない」――
まさにムルソーとクレブスである。
「自分が自分でない」という言葉の意味は、さらに深い。

自分がもっとも自分となるような、
つまり最大限に自己を表現できるような
行動様式を見出すのが
「アウトサイダー」の仕事であることを、
この一言は意味している。

コリン・ウィルソン『アウトサイダー』「Ⅳ制御への試み」より、T.E.ロレンスについての分析(引用は1957年刊・福田恒存/中村保男訳・紀伊国屋書店版 p.73より)

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2009年5月27日 (水)

「道徳は大部分、支配階級の利益と感情から生まれたものである」

支配的な階級がある国では、その国の道徳、
つまり社会道徳は、かなりの部分、
支配的な階級の自己利益と優越感から生まれている。

古代スパルタの市民と奴隷、
アメリカの植民者と黒人、
国王と臣民、
領主と農奴、
男と女
などの関係を規定する道徳は大部分、
支配階級の利益と感情から生まれたものである。

ジョン・スチュアート・ミル『自由論』(山崎洋一訳・光文社)p.21

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2009年2月25日 (水)

「行為の結果を動機としてはいけない」

あなたの職務は行為そのものにある。

決してその結果にはない。

行為の結果を動機としてはいけない。

また無為に執着してはならぬ。

『バガヴァッド・ギーター』(上村勝彦訳・岩波文庫)p.39

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2009年2月23日 (月)

「〈知ること〉は…」

〈知ること〉[認識]はすべて
〈知る人〉[認識者]によるアクションなのだ、

ということに気づく。
それが、われわれの出発点だった。

つまり、いいかえれば、
〈知ること〉はすべて、
〈知る人〉の構造にかかっているのだということに。

ウンベルト・マトゥラーナ/フランシスコ・バレーラ『知恵の樹』(管啓次郎訳・ちくま学芸文庫)p.39

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2007年11月20日 (火)

「冷笑主義的態度(シニシズム)は、ここでは不要だ」

冷笑主義的態度(シニシズム)は、ここでは不要だ。

オスカー・ワイルドがかつて述べたように、

冷笑家とは、すべてのものの値段は知っていても、

どんなものの価値も知らない人間のことなのだから。

E・W・サイード『知識人とは何か』(大橋洋一訳・平凡社ライブラリー) p116

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