2018年3月22日 (木)

読むことと書くことが同時に進みます。

…すなわち、先ず、歴史家は資料を読み、
ノートブック一杯に事実を書きとめるのに長い準備期間を費やし、
次に、これが済みましたら、資料を傍へ押しやり、ノートブックを取り上げて、
自分の著書を一気に書き上げるというのです。

しかし、こういう光景は私には納得が行きませんし、
ありそうもないことのように思われます。

私自身について申しますと、
自分が主要資料と考えるものを少し読み始めた途端、
猛烈に腕がムズムズして来て、自分で書き始めてしまうのです。

これは書き始めには限りません。どこかでそうなるのです。
いや、どこでもそうなってしまうのです。

それからは、読むことと書くことが同時に進みます。
読み進むにしたがって、書き加えたり、削ったり、書き改めたり、除いたりというわけです。

また、読むことは、書くことによって導かれ、方向を与えられ、豊かになります。
書けば書くほど、私は自分が求めるものを一層よく知るようになり、
自分が見いだしたものの意味や重要性を一層よく理解するようになります。

恐らく、歴史家の中には、ペンや紙やタイプライターを使わずに、
こういう下書きはすべて頭の中ですませてしまう人がいるでしょうが、これは、(.中略..)

しかし、私が確信するところですが、歴史家という名に値いする歴史家にとっては、
経済学者が「インプット」および「アウトプット」と呼ぶような
二つの過程が同時進行するもので、
これらは実際は一つの過程の二つの部分だと思うのです。

みなさんが両者を切り離そうとし、一方を他方の上に置こうとなさったら、
みなさんは二つの異端説のいずれかに陥ることになりましょう。
意味も重要性もない糊と鋏の歴史をお書きになるか、
それとも、宣伝小説や歴史小説をお書きになって、
歴史とは縁もゆかりもないある種の文書を飾るためにただ過去の事実を利用なさるか、
二つのうちの一つであります。

――E. H. カー 『歴史とは何か』(清水幾太郎訳・岩波新書)p.37-38

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2015年2月21日 (土)

僕が言っているのは、 ネガティヴ・ケイパビリティ(受容する負の能力)というものだ。

僕が言っているのは、
ネガティヴ・ケイパビリティ(受容する負の能力)というものだ。
先の読めない状況や、理解を超えた神秘や、
疑念のなかに人があるとき
事実だの、理屈だのを求めて苛立つことなく、
その中にたたずんでいられる、
その能力のことだ。

――ジョン・キーツ 1817年12月22日 ジョージ&トマス・キーツへの手紙より
(下記パブリック・ドメイン テキストより拙訳)

—I mean Negative Capability, that is, when a man is capable of being in uncertainties, mysteries, doubts, without any irritable reaching after fact and reason.

John Keats  (to George and Thomas Keats,
December 22, 1817)
from "Letters of John Keats to His Family and Friends"

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2013年1月20日 (日)

小説は、まさに、統御された阿片の旅である。

小説は「ヴィジョンを拡げる」効果を発揮する。
われわれの日常の意識は、侠角レンズのカメラのように狭い。
こういったカメラは、クローズアップの非常に優れた写真をとることはとるが、
その範囲は極めて限られているのである。
一方、プロの写真家は広角レンズをカメラにつけて、パノラマ的な全景を写し出す。
そして、"これ"こそまさに小説によって意識の上に作り出される効果を説明しているのである。

つまり小説は、精神に広角レンズをとりつけるのである。
小説はわれわれに、まるでカメラがぐっと空中高く舞い上り、
突然田園一帯を写し出すように、「後退する」ことを可能にする。
もちろんわれわれは、抽象的な意味ではこういったものが存在していることを常に知っている。
しかし日常という狭角レンズは、われわれがそれをはっきり見えないようにしてしまっているのだ。

多くの阿片吸引者たちが、これと同じ効果――
山なみや大海原のはるか彼方に翔け上がるような――を記している。
しかし阿片のときのヴィジョンは、夢の持っている、
こちらではどうにもならないという性質を持っている。

ところが小説は、まさに、統御された阿片の旅である。
それは広角的な意識を作り出す工夫なのである。


コリン・ウィルソン『小説のために -想像力の秘密』(鈴木建三訳・紀伊国屋書店 p.88)

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2012年3月17日 (土)

「ぼくとぼくの生きかたは…」

「ぼくとぼくの生きかたは
ぜんぜん反りが合ってないような気がする」

彼はつぶやいた。

「なにか言ったかね?」
老人が穏やかに尋ねた。

「ああ、いえ」とアーサー。
「ただの冗談です」

ダグラス・アダムス『銀河ヒッチハイク・ガイド』(安原和見訳・河出文庫)p.259)

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2012年1月24日 (火)

優雅な散文とは

散文は舞踊ではない。
散文は歩む。

そしてその歩み、あるいは歩み方によって、
その所属する種族が判明する。
頭に荷物をのせて運ぶあの住民に
ふさわしい均衡のように。

ここから次のようなことをぼくは考える。

つまり優雅な散文とは、
作家が頭の中で運んでいる
荷物の重みと相関するものであり、
これ以外の優雅さは
単に振付けの結果によるものに
過ぎないということだ。


ジャン・コクトー『言葉について』(秋山和夫訳:『ぼく自身あるいは困難な存在』所収・ちくま学芸文庫)pp.187-188

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2011年12月23日 (金)

「愛され賛美されたいと思うのは」

「人を愛し賛美するのは弱さじゃないわよ!」
「だけど愛され賛美されたいと思うのは弱さよ、ネル――私みたいな芸術家肌の人間が毒されやすい感情よ。(……)」

(アイリーン・アドラーの台詞より)
キャロル・ネルソン・ダグラス『おやすみなさい、ホームズさん(下)』(日暮雅通訳・創元推理文庫)p.221

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2011年1月25日 (火)

自分がもっとも自分となるような

…天才のもつ健全な自惚がロレンスに欠けていたことが、
かれの生涯を悲劇的な浪費におわらせた根本原因の一つである。

(中略)ケニントンは、まったく他人の、
千里眼のきく老教師に『智慧の七本の柱』を
見せたときのことをこう述べている。
それを読んでの教師の感想は――

「この本を読んで、わたしは胸が痛んだ。
これを書いた人は、わたしの知るかぎりでは
もっともずばぬけた大人物だが、
この人はおそろしくまちがっている。
自分が自分でないのだ…(中略)

わたしは心配でならない。
この人は行動のなかで生きてはいない。(中略)」

この感想は、ロレンスの根底を衝いているのみか、
「アウトサイダー」一般の性格を的確に表現している。

「この人は行動のなかで生きていない」――
まさにムルソーとクレブスである。
「自分が自分でない」という言葉の意味は、さらに深い。

自分がもっとも自分となるような、
つまり最大限に自己を表現できるような
行動様式を見出すのが
「アウトサイダー」の仕事であることを、
この一言は意味している。

コリン・ウィルソン『アウトサイダー』「Ⅳ制御への試み」より、T.E.ロレンスについての分析(引用は1957年刊・福田恒存/中村保男訳・紀伊国屋書店版 p.73より)

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2010年10月 3日 (日)

枯らすなら おまへの墓場で枯らしたいから

私の深い悲しみの庭の中に
 ああ 見捨てられた私の心よ、おまへもおんなじだ、
 かまひてもないが凋(しぼ)みもしない
この貧しい詩の花も さうなのだ

とぢてしまつたおまへの眼を、昔うれしがらせたこの花を、
 おまへの墓場に植ゑさせてくれないか。
 よしや咲きさかる時がなからうとも、
枯らすなら おまへの墓場で枯らしたいから

テニスン『イン・メモリアム』 No.8より(入江直祐訳・岩波文庫)p.40
(早世した親友アーサー・ハラムを悼む詩の一部です)

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2010年8月18日 (水)

なぜ万人が美しと感ずるものを

それにしても、人間というものは、
なぜ万人が美しと感ずるものを
文字に書こうとするのだろう。

だれも味解などできもしないくせに?

ジョン・ポリドリ『吸血鬼』 (平井呈一訳:『怪奇幻想の文学Ⅰ 深紅の法悦』 所収 ・新人物往来社)p.40

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頭と手を使える仕事を

なんでもいい。
頭と手を使える仕事を見つけなければならない。
さもなければ気が狂ってしまう。

ジョン・メトカーフ 『死者の饗宴』 ( 桂千穂訳:『怪奇幻想の文学Ⅰ 深紅の法悦』 所収 ・新人物往来社)p.286

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2010年4月15日 (木)

「人の説で知ったり、人の説で考えたりするために・・・」

「…きみはほんとにきみのその目その耳を、
きみの周囲の日常生活に対してしっかり開いておらんぞ。

世の中には、きみの知らんことが山ほどあるということ、
自分の見ないようなことを見ている人があるということを、
きみは考えておるか?

人の説で知ったり、人の説で考えたりするために、
肝心のその人間の目で見ないでいることが、
世の中にはたくさんあるのだぜ」


(ヴァン・ヘルシング教授の台詞より)
ブラム・ストーカー『吸血鬼ドラキュラ』(平井呈一訳・創元推理文庫 p.287 )

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2010年2月21日 (日)

美しいものの観想が心に生み出す満足感

…しかし私自身としては美という言葉によって、
物体に備わっていて我々に愛もしくはそれに似た種類の
情念を生み出す一つもしくはそれ以上の性質
である
と定義する。

(中略)同じ趣旨にもとづいて私は愛という言葉
(これによって私が意味するものは、その本性が
何であるかを問わずすべて美しいものの観想が
心に生み出す満足感のことである)
を、欲望ないし色欲と区別する。

欲望は我々を駆って或る対象の占有へと向かわせる
心の活動力であって、それは決して対象が
美しいという理由で我々を刺激するのではなく、
それとは全く別の原因からである。

我々が特別美しくもない女性に対して
強い欲望を感ずることもあろうし、
その反面で同性たる男性もしくは他の動物に
備わる美に対して愛を感じはするが
些かも欲望を感じない場合もあろう。

この事実は美それ自体ないし美が生み出す
愛と呼ばれる情念が、たとえ時折は欲望と平行して
作用することがあっても
決して欲望と同じものではないことを立証する。

エドマンド・バーク『崇高と美の観念の起源』/第三編/一 美について(『エドマンド・バーク著作集1』中野好之訳・みすず書房p.99~100)

同内容の『崇高と美の観念の起源』単行本は現在絶版ですが、
下記サイトにて二月末まで、2010年復刊リクエスト投票を受付中です。
ご興味のある方はぜひどうぞ!(私は勢いで投票してしまいました(笑))

→書物復権2010年8社共同復刊
(投票については下のほうの「実施要綱」をご覧ください。
『崇高と美の観念の起源』は復刊候補リスト&リクエストフォームのNO.36です)

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2010年2月14日 (日)

「おお、フランケンシュタイン!」

※Spoiler Alert
小説『フランケンシュタイン』ストーリーの後半部を
推測できる台詞を含んでおります。

相手は止まって、驚いたようにぼくを見ました。
それからまた創り主の息絶えたからだに目をやると、
ぼくのことなど忘れたように、顔つきもしぐさも、
何か抑えのきかない激情に揺り動かされた様子でした。

「これもまたわが犠牲!」
と彼は叫びました。

「彼を殺しておれの罪は完成された。
このみじめな生もやっと終わりにたどりついたのだ!
おお、フランケンシュタイン!寛容と献身の人よ!

今さら赦しを請うて何になる?
自分がしたのはとりかえしもつかぬこと、
おまえの愛する者すべてを滅ぼして
おまえを滅ぼすことだったのだ。

ああ、もう冷たい。答えてはくれない」

メアリ・シェリー『フランケンシュタイン』(森下弓子訳・創元推理文庫p.291)

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2010年2月 4日 (木)

…資質の最上のものが表にあらわれるため

セイラはニールが会った女性のなかで、
態度が少しも変わらないはじめての相手だった。

ニールの足をはじめて見たとき、表情は少しも変わらず、
哀れみや恐怖や驚きすら示さなかった。
その理由だけでも、ニールが彼女に夢中になるのは予想できたことだった。

セイラの人となりのあらゆる側面を目にするころには、
ニールは彼女にぞっこんになっていた。

そして、セイラといっしょにいると、
ニールの資質の最上のものが表にあらわれるため、
彼女もニールに恋した。

テッド・チャン『地獄とは神の不在なり』(『あなたの人生の物語』浅倉久志・他訳・早川書房 p.399)

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2009年10月21日 (水)

魂ほど移動に時間のかかるものは無い。

あちこち駆けずりまわったり、
性急にぼくらの品物をそっくり別の場所へ移したり、
仕事を自分の気に入るように一分間で変えたりすれば、
ぼくらは必ず何かを失くしてしまう。

魂ほど移動に時間のかかるものは無い。

だから一度場所を変えると、魂と肉体が再会するには、
きわめて手間がかかる。

自分は敏捷だと思い込んでいる人々は、
わけがわからなくなってしまう。

多くの場合、魂が足を引っぱるので両者はなかなかうまく再会できない。

ジャン・コクトー『魂の操舵について』(『ぼく自身あるいは困難な存在』・ちくま学芸文庫 p.148)

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2009年9月21日 (月)

心一杯に懺悔して

心一杯に懺悔して、

恕(ゆる)されたといふ気持ちの中に、再び生きて、

僕は努力家にならうと思ふんだ――

中原中也『(吹く風を心の友と)』(『中原中也詩集』・新潮社・未刊詩篇p.235)

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2009年7月26日 (日)

正気を保つことによってこそ

奇妙なことに、時報が彼に新たな勇気を注入したようだった。
自分は誰も耳を貸そうとしない真実を声に出す孤独な幻。
しかし声を出している限り、
何らかの人目につかない方法によってでも、
真実の継続性は保たれる。

他人に聞いてもらうことではなく、
正気を保つことによってこそ、
人類の遺産は継承されるのだ。

彼はテーブルに戻り、
ペン先をインクに浸し、
書いた――

ジョージ・オーウェル『一九八四年』(高橋和久訳・早川書房)p.45

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2009年6月17日 (水)

全体像が見えている時は

全体像が見えている時は、
人間は簡単にはあきらめないものだ。

ロバート・カーソン『シャドウ・ダイバー(上)』(上野元美訳・早川書房)p.36

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2009年5月27日 (水)

「道徳は大部分、支配階級の利益と感情から生まれたものである」

支配的な階級がある国では、その国の道徳、
つまり社会道徳は、かなりの部分、
支配的な階級の自己利益と優越感から生まれている。

古代スパルタの市民と奴隷、
アメリカの植民者と黒人、
国王と臣民、
領主と農奴、
男と女
などの関係を規定する道徳は大部分、
支配階級の利益と感情から生まれたものである。

ジョン・スチュアート・ミル『自由論』(山崎洋一訳・光文社)p.21

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2009年5月17日 (日)

「『政治的に可能』かどうかは気にしないようにした」

私はしばらく間をおいてから、冷ややかに答えた。

「ああ、やっとわかりました。あなたがいまいったことを、
ボリビアの友人たちに説明させてください。
あなたはシティバンクに電話して、
ボリビアの政策が適切かどうか尋ねるつもりなんですね?
つまり、IMFの債務戦略は銀行の思惑しだいということですか?」

代表団長は怒りをあらわにして本を閉じ、
立ち上がって、話し合いは終わりだった。
(中略)
ところが面白いことに、それ以後、IMFは二度とボリビアに
利子支払い再開の要求をしなくなったのだ。

(中略)
たぶん未熟さゆえだろうが、
私は赤字削減のために型破りな方法が
必要だと思っただけでなく、
それが可能だと信じた。
そんな思い込みは結局、正しかった。

それ以来、私は何が必要かという点だけを明瞭にし、
「政治的に可能」かどうかは気にしないようにした。

何かが必要なら、それは可能だし、
なんとしても実現させるべきなのだ!

ジェフリー・サックス『貧困の終焉~2025年までに世界を変える~』(鈴木主税/野中邦子訳・早川書房)p.161、170

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«「芸術の目的は(…中略…)個性の領域を広げることであります」